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【メンバー紹介】CFO/髙島 史 「音楽遍歴」

私は大学卒業後、ベンチャーキャピタルのJAFCOに入社して37年間JAFCOとともに歩んできました。うち20年間を海外で過ごしましたが、シンガポールには17年間滞在し、驚愕的なアジアの成長を間近に体感してきました。そのシンガポールで、CEOの中村とは2019年9月に大学の現地同窓会を通じて出会いました。当日のことは今でもはっきり覚えており、中村は爽やかなナイスガイという風貌で、30代前半にも関わらず自分の方向性を見定めて突き進むスゴイ奴、という印象でした。Cross Capitalについては、私が2020年に日本に帰国後、彼から「独立したい!」ので「壁打ちさせてほしい」と称して相談を受けたところから話が始まり、意気投合して今に至ります。その後のCross Capitalの設立に至る経緯や想いについては中村が書いていますので、私は自分のバックグラウンドについて「音楽」をキーワードとして散りばめながら(謎)書かせていただきます。

 

 

 


 

プロフィール

髙島 史 | Co-Founder CFO

 

2022年9月までJAFCO Groupに在籍。10月、Cross Capitalに共同創業者として参画。JAFCOでは37年にわたり、ファンドマネージメント・資金調達・LP対応・事業開発・経営企画等のVC業務およびマネジメントを幅広く経験。内、20年間は 海外赴任(米国・シンガポール)、グローバルVC運営に深く携わる。シンガポールではJAFCO AsiaのManaging Director & COO、JAFCO KoreaのPresident等を歴任。シンガポールにおいてJAFCOのアジア各拠点を統轄、シンガポール・中国・韓国・台湾・インド等アジア各国をカバー。総額10億米ドル超となる8本のファンド設立を主導。国内外でのVCファンドに一貫して関与、深い知見と豊富な経験(民法上の投資事業組合・ケイマンVCファンド・中国のローカル人民元オンショアファンド(QFLP)・台湾のローカルVCファンド等の設立など)を保有。

 


 

 

私が音楽に目覚めたのは小学校低学年、東京の池上に住んでいました。TRIOのステレオ(分かる人には分かる!?)が家にあり、訳も分からないままクラシックレコードの名曲集を聞かせてもらって悦に入っていました。カワイ音楽教室でオルガンを習い始め、日比谷公会堂での発表会でトルコ行進曲を演奏した記憶があります。その後は少し飛んで6年生、当時金沢に住んでいました。QueenのKiller QueenやCarpentersのRainy Days and Mondaysをラジオで聞いて一人でときめいていました。

 

 

転機は中学2年生の時。オーディオマニアでドラマーの友人の家で聞かされたLed Zeppelinにドハマりしたのです。ベニヤ板をくり抜き数枚重ね合わせてレコードプレーヤーケースを自作したり、「無線と実験」(懐かしい!という方もおられるはず)を見ながら見様見真似でオーディオアンプを作ったりしながら、ZeppelinのLPレコードを全巻揃えて聞き入っておりました。同時期にBeatlesの全曲213曲をカセットテープに収めて毎日繰り返し聞いていたりもしました。それ以降はハードロック、プログレ、ユーロロック、ファンク、レゲエなど、音楽は青春でした。ただ聞いていただけですが。

 

英語の歌詞は私の英語の先生でした。英語との出会いは小学校3年生。仙台の学校で英語の先生をしていた母方の祖父から毎週英語レッスンの手紙が送られてきて、それを母が教えてくれました。私は祖父の初孫でえらくかわいがってもらったのですが、英語については当時あまり楽しいとは思いませんでした。それが中学・高校になって前述の音楽にハマり、英語の歌詞を口ずさむ時に役に立つとは夢にも思いませんでした。うまくハモりたい一心で、曲を繰り返し聞きながら発音を真似したものです。

 

 

JAFCOに入社したのは音楽とは関係ありません(笑)。大学で構内週刊新聞を商業出版していたWeekly GIANTSに4年間勤めた(?)関係でマスコミへの就職を目指したのですが、一つも受からず、惰性で金融機関を会社訪問している中でJAFCO、当時の日本合同ファイナンスに出会いました。その頃はベンチャーキャピタルという事業は日本でまだ認識されておらず、「◯✕ファイナンス」なら消費者金融系というイメージが一般的でした。当時消費者金融会社は「サラ金」と呼ばれ、社会的にも厳しい見方をされることが多い時代でした。そういった事情もあり、入社後も「ファイナンス」を使いたくないので、電話で「ジャフコです」と言うと、「ジャスコさん?」と返されるのも普通でした。なお蛇足ですが、就職活動当時、会社訪問した「長信銀」3社が時代の最先端を行く事業として注目されており、その後の変遷を顧みるに感慨深いものがあります。

 

さて入社前には、そもそもJAFCOのことを知らず、ベンチャーキャピタルもわからず、もっと言うと株式公開もIPOも全く知らなかったのですが、中小企業を支援するおもしろそうな会社、という理解でした。元々マスコミ志望だったので理屈っぽいところがあり、中小企業→日本の企業数のほとんどが中小企業→日本の産業は中小企業が支えている→その中小企業を支援するのがJAFCO→社会的な意義が大きくていいじゃないか!、という単純なロジックで入社を決めました。また少々ひねくれ者だったので、いわゆる大企業には行くのもつまらないし、JAFCO自身も中小企業であり、意思決定(マネジメント)に関わりやすくておもしろそうだ、などと青臭いことも考えていました。

 

JAFCOでの転機は、入社して数年後、闇雲に働いていることに閉塞感を感じ、留学するか転職するか、などと考え始めた時でした。ちょうどタイミングよく、大学時代の2年上の先輩から、「社会人大学院」というのがあるよ、と聞いたのです。日本初の夜間社会人大学院が1989年に設立され、その先輩が1期生として通っていました。調べてみると、授業は平日18時半からと土曜の午前中。会社を辞めずに通えるし、MBAを取得できるのに国立なので学費も安い(当時年間30万円くらい!)。幸運にも2期生として入学することができたのですが、毎日18時頃にオフィスを出てしまうため、仕事を効率的に進めなければ回らず、また周りのメンバーにも負担をかけたので、チームのありがたさを身に沁みて感じました。当然勉強もするので睡眠時間を削ることになり、通学する丸ノ内線に乗る15分間の車内でつり革にぶら下がって寝落ちすることもありました。人生で初めて24時間を明確に意識した日々でした。

 

夜間社会人大学院というのがそもそも社会で新しく、新しモノ好きの多士済々の面々が同級生として集まったので、20代後半の私にとって、刺激は半端ないものでした。おかげで視野も少し広がり、JAFCOでの仕事も新たな切り口で見直すことができ、結果として会社を辞めませんでした。その頃出会ったのが、JazzとBluesでした。それまでは限定的にしか使えていなかった夜が開放されて、Barで飲むことも覚え、そうしたお店で様々なレコードを聞かせてもらいました。おもしろかったのは、高校生の頃に聞いても全く興味が湧かなかった、Jimmy Pageが弾くBluesの曲がナルホド、とわかったような気になり、RockのルーツがBluesとJazzであることも遅ればせながら体感したのでした。

 

 

その後JAFCOの経営企画→アメリカ→シンガポールとロケーションは異なりますが、一貫してマネジメントに関わることができ、音楽の嗜好からもお察しいただける通り、グローバル志向が強かった私にとって、海外での20年間はかけがえのない経験となりました。JAFCOに入社した時の中小企業=ベンチャー企業とともに歩む想いは37年間変わらず、幸いなことに今度はCross Capitalで、日本企業のためのオープンイノベーションインフラを海外VC・スタートアップとともに作るという、ネクストステップに踏み出すことができました。自身もスタートアップであるCross Capitalのメンバーとして、この新たな想いを実現するために全力を尽くしてまいります。

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